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茶の湯と禅のつながり
茶道の精神は禅にあり
茶の湯の精神は禅に裏付けされています。
禅の世界に入門すると座禅をはじめとする日常の厳しい修行の中で何にもとらわれない悟りの境地に至ることを教えます。
『教外別伝 不立文字』(きょうげべつでん ふりゅうもんじ)と言われるように、書物からの知識ではなく、自分自身で体感したことが真実とされます。
修行者は日々心の奥で自分自身に問いかけ、自分自身を磨く修行に励みます。
その精神が茶の湯に影響を与えたことで茶の湯は単なる道楽ではなく、精神修行の一面を帯びました。どこの茶道教室もまずは実践から入るのは、この『教外別伝 不立文字』の禅の教えに基づくためです。
茶道に関する本はたくさん出ておりますが、どこの茶道教室もまず実践で礼の作法や襖の開け方などを体得します。
四規『和敬清寂』
茶の湯の精神を伝える『和敬清寂』は四規と呼ばれます。千利休の茶道に対する思いはこの4文字に集約されており、四規に込められている精神は禅の精神そのものです。『和』はお互いが仲良くすること、『敬』は人や道具を敬うこと、『清』は心の清らかさ、『寂』はどのような事態にあっても冷静でいられる不動心を表します。
七則 茶の湯の教え
茶の湯の教えを伝える 『七則』も全て禅の教えが基本です。七則は千利休によって定められた茶の湯の教えです。
茶は服のよきように点て、
炭は湯の湧くように置き、
花は野にあるように、
夏は涼しく冬は暖かに、
刻限は早めに、
降らずとも雨の用意、
相客に心せよ
この教えは、千利休の弟子の一人が、「茶の湯で心得ておくべき最も大切なことは何でしょうか」 と尋ねた時に答えたことです。
あまりにも当たり前のことを言っているので、「そのようなことは誰もが知っています」と言うと千利休はこう答えました。
「私が言ったことにかなう茶ができるのなら、私はあなたの弟子になりましょう」と。
当たり前のことを完璧にすることは簡単そうで、なかなか難しいということを伝えています。
これは中国の禅の層が、仏教の極意を訪ねられたときの答えにも似ています。
とある中国の禅の高僧は弟子に仏教の極意を尋ねられて、
「全ての悪を行わず、全ての善を行いなさい」
と答えたと言い伝えられています。このことからも禅の教えは茶道の教えに裏付けられていることが伺えます。
四規七則は単なる 表面的な意味だけでなく、もっと深く幅広い意味を持っています。この教えの意味することを理解できれば茶道は単なるお遊びとは違って高い道徳性を持つ1つの文化体系であるということが分かります。
四規七則について詳しくはこちらの記事でまとめてあります▶茶道の精神
茶の湯と禅語
茶道の教えそのものが禅と深く繋がっていることは四規七則の言葉からわかると思いますが、見た目でわかる茶道と禅のつながりはお茶室の掛け軸にあります。
お茶室には必ず床の間があり、床の間には掛け軸がかけられています。床の間に掛けられる掛け軸は現代はほぼ禅語です。
掛け軸に書かれている言葉がそのお茶事・お茶会のテーマになります。お茶事やお茶会に限らずお茶のお稽古場でも場所によっては掛け軸が掛けられています。先生がその季節やお稽古内容に沿うものを選定します。
このことからも茶の湯と禅が関わっているということがわかります。
茶席の掛け軸でよく使われる禅語
『○』(えんそう)
円相(えんそう)といわれるもので、「○」を一筆で丸を書きます。言葉や文字による表現を越えたことろにある完全性を表す記号です。
『○ 是れ食ふて茶のめ』となると「○」は「饅頭」を意味し、『○ 吾心似秋月』の場合は「」『月』を意味します。いづれにしても言葉では表現できい真理を表現するのが円相です。
『喫茶去』(きっさこ)
本来の意味は「お茶でも飲んで目を覚まして来なさい」という意味でしたが、一般には「お茶を召し上がれ」を解されています。きっとこの言葉がお茶席に掛けられてあったら、亭主から「まぁまぁ、お茶でもどうぞ。」と緊張しないでリラックスしてお茶を楽しんで下さいねという意味が込められているものと思われます。
『看脚下』(かんきゃっか)
真理や仏法は遥か遠くにあるなにか特別なものと思ってしまいますが、自らの手の届くところにある大切なものを見過ごしていないか、を指摘する言葉です。この教えは中国からの輸入品の茶道具ばかりが評価されていた時代に日本製の瀬戸焼や備前焼きから美を見出した侘茶の精神に繋がります。同義の禅語で『照顧脚下』があります。
『日日是好日』(にちにちこれこうにち)
映画のタイトルにもなったので聞いたことがある人は多いと思います。和尚さんが弟子たちに「今日までのことはとくに問題にしない。今日からのことを一言で表現してみよ。」と尋ねて自らが「日日是好日」と答えたといわれています。好日は楽しい、嬉しい、良い日だけを意味するのではなく、楽しい日、辛い日、嬉しい日、悲しい日さまざま移り変わるけれど、一日一日が尊くて、かけがえのない素晴らしい日である、という意味です。
茶の湯の教えを表現する禅語
茶の湯を教えを表現する禅語はたくさんありますが特に有名な禅語を紹介します。
茶禅一味
茶道と禅が一体化していることを意味します。千利休の孫である宗旦は『茶禅一味』の境地を求めて実践したことから茶の湯は単なる遊芸ではなく、茶と禅が一つになった人間形成の道、すなわち茶道でなければならないと後世の茶人に示すことになりました。
一期一会
茶会に臨むときには一生に一度のことと考えて主客ともに誠意を尽くさなくてはならないという教えで、茶会に臨むときに限らず日々接する人々や物事と過ごす時間の大切さにも通じます。
一座建立
表面的な意味は亭主と客がお互いの役割を果たしてお茶会をすることですが、主客の心、客同士の心が通じ合い、己の心が和し、道具の取り合わせが和してお茶会の雰囲気が丸くなごやかになる、そんな状態が一座建立です。
茶の湯と禅のつながりの歴史
茶の湯と禅は深く繋がっていることを解説しましたが、最初から茶の湯と禅が現代の茶の湯の形であったわけではなく、最初は茶の薬の効能が注目され、その後美術品を鑑賞する会でお抹茶が飲まれるようになり、時代を経て茶を飲むという行為に精神的要素が加わって今の茶道となりました。この章では茶と禅の繋がりの歴史を見ていきます。
『茶 + 禅』
お抹茶と禅は同時期に中国を経て日本に入ってきましたが、最初から今に伝わる茶道のようにお茶を飲む行為と禅の精神が一体化していたわけではありません。最初のイメージは『茶+禅』です。茶は薬として武士の間で注目され、禅は新しい仏教として発展しました。
日本で一番初めに中国から茶を飲む習慣が伝わったのは奈良時代(710年~794年)にまで遡ります。当時は朝廷や僧侶など、貴族社会のみで嗜まれていました。しかし、遣唐使が廃止された(894年)のと同時に中国から茶の輸入ができなくなり、平安時代前半には一旦茶を飲む習慣は途絶えます。
禅寺では「茶礼」で抹茶を
平安の世が終わり、鎌倉時代に差しかかろうとしているときに栄西(えいさい)が中国(宋)での留学を終えて帰国します。このとき栄西は中国で学んだ禅についてと、新しい茶の点て方である抹茶法を日本に伝えました。これがきっかけで抹茶が広く世に知れることになります。
当時、宋の禅寺の僧侶たちは1日数回一つのやかんの茶をみんなで分け合って心を一つにするいという禅の修行の一つである「茶礼」を行っていました。
栄西に続き次々と留学僧が禅の教えを持ち帰ったことから、日本の禅寺の僧侶も宋に習って茶礼を行っていたと想像できます。
「茶礼」は茶の湯の原型とも言われています。このことからその当時から禅と茶は結びつきがあったといえますが、僧侶の間では「茶礼」の一貫で心を和して抹茶を飲むこと自体に禅の精神が宿っているという概念はあったと思いますが、鎌倉時代は、茶は主に薬としての効能に注目がありました。
将軍の二日酔いを治した薬として評判に
鎌倉時代は薬としての注目度が高かったという記録は『吾妻鏡』にみられます。
三代将軍源実朝が二日酔に苦しんでいた際、栄西は加持祈祷を依頼され、一碗の茶と『喫茶養生記』を献じました。すると二日酔いがぱったり治ったのです。
これをきっかけに実朝は茶を飲むようになりました。
栄西が献上した『喫茶養生記』は茶は末代養生の仙薬であること、万人の病気に効く、寿命を延ばす、心臓に良いことなどを説いているため、なおのこと茶の薬としての効能に注目が集まったのです。主に禅僧と交流のあった鎌倉武士の間で将軍がお気に召した茶ということで抹茶が流行し始めました。
『茶 × 美術品鑑賞』
鎌倉時代後期になると、茶を飲みながら中国から輸入された美術品鑑賞をする茶会が開かれるようになります。中国から輸入されたものは唐物(からもの)と呼ばれます。
この時代は、中国(宋)から大量の文物が日本に運び込まれていて、鎌倉幕府の執権を務めた者の手紙には「鎌倉中に唐物があふれている」という記述があり、京都から鎌倉に戻る家族宛ての手紙には「唐物を使った茶が流行っています、いよいよ流行するでしょうから、そのような道具も用意してください」といった記述が残っており、相当流行っていたことが想像できます。
また1967年に行われた沈没船の調査で唐物の陶器が2万点と中国の銅銭800万枚などが発見されたという記録があります。1隻にこの量が積まれていたことから、かなりの量が輸入されたと想像できます。
会所での唐物鑑賞会
唐物が流行っていたといっても当時、中国から船で輸入をするのは困難を極めるため、唐物は高級品でした。唐物は美術品として捉えられ、会所というプライベートな文芸の空間で茶を飲み、鑑賞される対象になりました。
会所での茶会の流れ
現在のお茶会とは雰囲気も違い、茶室の広さも違います。一部の当時の茶会の記録によると、会所は2階建てで銀閣寺のようなイメージです。
まず簡単な食事と酒が出され、そのあとに庭の散策をします。
そのあと2階の「喫茶の亭」に入ってお茶を飲みますが、その「喫茶の亭」には唐物の絵画、香を焚く道具などがふんだんに飾られ、茶壺には現在まで続く茶の名産地栂尾や高雄の茶が用意されています。
客が着座すると亭主の子息が菓子を配り、抹茶の入った茶碗を配ります。そして湯瓶と茶筅を持ってそれぞれの茶碗に湯を注いで茶を点てて回っていたそうです。喫茶が終わるとまた酒宴です。
現代のお茶会と違うといっても、この時期のお茶会がある程度の基礎は築いていたとええます。 なぜならその当時と現在のお茶会の流れ自体はさほど大きく変わらないからです。
- 茶×美術品鑑賞の茶会
席入りー食事と酒ー庭の散策ー後入りー茶ー酒宴
- 茶×禅の茶会
席入りー食事と酒ー中立ちー後入りー茶
この時代の茶会は茶を飲んだあとさらに酒宴が入りますが、現代の茶会は喫茶をしたら終了です。
また茶会が行われる部屋も当時はいくつもの部屋がある大きな会所で行われていたのに対し、現在の茶会は無駄を一切省いた茶室です。
『茶 × 禅』
時代を経て茶会は『茶×美術品鑑賞』から、『茶×禅の教え』に移行していきます。
現在茶道といえば千利休を思い当たる人がほとんどだと思いますが、千利休より前に今の茶道の礎を築いた方がいます。
わび茶の創始者 村田珠光
村田珠光は 一休宗純から禅を学び、能阿弥から茶を学びました。能阿弥は足利将軍に使えて座敷飾り、唐物の保管や補修などを行っていた一族なので村田珠光が能阿弥から学んでいた茶は、『茶×美術品鑑賞』の茶であったと想像できます。
村田珠光は茶と禅を学んでいたため、茶は美術品鑑賞で終わる遊芸ではなく、禅の精神性を取り入れるべきだと提唱し始めました。これが「わび茶」のはじまりです。
当時、茶会といえば唐物の鑑賞でしたが村田珠光は「伊勢・備前の焼き物でも工夫を凝らして使えば唐物茶道具にも勝る」と述べています。
見栄をはらなくても、目の前にあるものから美を見出す。「足るを知れ」という禅の教えにつながります。
わび茶の推進者 武野紹鴎
村田珠光の教えは弟子に伝わっていきますが、時代が新しくなり武野紹鴎が現れます。
武野紹鴎は和歌を志して公家の三条西実隆に師事してそれまでの唐物が主体の茶の湯に和歌の心を取り入れました。現代の茶道でも受け継がれる茶道具を作り出したとも言われ、『紹鴎袋棚』『釣瓶水差し』『竹蓋置』などは紹鴎が作り出したものです。
また武野紹鴎の最後の茶会では初めて床の間に和歌が飾られたという記録も残っています。それまでは唐物の墨蹟や絵画が中心だったのが、ついに床の間の飾りも和風化させたという点に、当時はインパクトがありました。
千利休による茶×禅=茶道の確立
時代が安土桃山時代になると、茶の湯は中国の明との貿易で経済が発展した堺で発展します。一休宗純などによる禅宗大徳寺の熱心な布教活動により堺の豪商や堺の茶人の多くが禅宗に帰依したことで茶の湯と禅が結びつきました。千利休はその時代に登場した茶人で、織田信長に仕え、豊臣秀吉にも仕えたことで茶匠として絶対的な立場を得ますが後年秀吉との関係がこじれ、自害します。
利休は自害するさいも静かに茶を喫して潔くこの世を去ったと伝えられます。
悟りの境地とはとらわれない自由闊達な心を表しますが、利休が潔くこの世を去ったのは「生」にとらわれない境地に達していたからかもしれません。
茶の湯は人間形成の道、『茶道』である
わび茶の創設者、村田珠光は「茶の湯には心の修養が大事である」と説き、
わび茶の推進者、武野紹鴎は「好奇者といふは隠遁の心第一に侘びて、仏法の意味をも得知り、和歌の情を感じ候へかし」と説き
茶道の大成者、千利休は「茶の湯は仏法をもって修行得度するものでなくてはならない」と説いています。
いづれも名物茶器の鑑賞ばかりにとらわれてしまうことを警戒し、禅の精神を重んじて自分自身と見つめて心の修行をすることが大切と伝えています。
このあと、千利休の孫の宗旦が「茶禅一味」を実践し、「茶の湯は単なる遊芸ではなく、茶と禅が一つになった人間形成の道、すなわち茶道でなければならない。」ことを示して今の茶道が確立しました。
抹茶法と禅は同時期に日本に入って来ましたが、薬としての効能、美術品鑑賞のお供、禅との一体化と時間をかけて現代に伝わる茶道になりました。
中国から取り入れた抹茶法ですが、中国と日本のお茶のお作法は異なります。
禅がなければ茶道は成り立たなかったし、日常生活の一部である茶を飲むという行為と繋がらなければ禅の精神はここまで広がらなかったかもしれないと思うと茶と禅の一体化は奇跡です。