茶道 近現代の歴史

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茶道近現代史

近現代の茶道の歴史を知ると千家の方々、勉強熱心な女性、ブルジョワジーの方々が茶道を絶やさずに今も続くかたちで伝えてきてくれたことがわかります。

江戸幕府が消滅し、全く違う国になろうとしている過程で茶道は一時下火になりましたが、明治時代になってから10年も経たないうちに新しい動きが芽生えたのです。

ブルジョワの方々がそれまで茶道を支えていた大名や武士たちに変わって派手に支えてくれた一方で、女子教育や千家が主体的に行った献茶や茶会が大衆に茶道文化を馴染ませる草の根活動となりました。

近現代の茶道の歴史年表

何年から何年が千家の活動、何年が女子教育と時間の流れが縦に繋がっているわけではなく、それぞれが似たようなタイミングで最初の一歩ががはじまり、じわじわとそれぞれの活動が繁栄し、ブルジョワジーの活動のように一時の繁栄は継続しなかった活動と今も活発に続いている活動があるため、イメージが沸くように表を作りました。

茶道近現代歴史表

このようにほぼ同時期にそれぞれの分野の方が活動を開始しており、皆で盛り立てていたイメージです。

※表の「近代数寄者」は後述しますが、明治時代に活躍した新興実業家で茶道をしていた人のことを指します。

明治時代初期は茶道の暗黒時代

茶の湯・茶道の歴史の中で一番暗黒の時代は明治時代(1868年~1912年)前半です。明治政権によってそれまでの武家政権は全否定され、日本の伝統文化も破壊的な打撃を受けました。それまで茶の湯をリードしてきた大名や上級武士はいっきにいなくなってしまい、明治維新の頃はお家元にはほとんど弟子がいなくなってしまいました。

西欧文明の積極的な導入が拍車をかけ、廃仏毀釈の影響もあって仏像や日本の美術工芸品は二束三文で売り払われました。

それまでこぞって大名や上級武士、豪商が収集していた高価な茶道具も全く価値がつかなくなります。定期的に売立会が開催されていましたが、この時期(1871年)の売立会では大名茶人酒井家の茶道具すらほとんど買い手がつかない状況でした。

売立会 : 大名や貴族・豪商などが自らの所蔵品を決まった期日中に売り払う入札会、つまりオークションのこと。

売立会は、明治初期は職を失い経済的に苦境に陥った大名などが仕方なく手放す悲しい場所でしたが、明治時代後半になると近代化に伴って経済力を持った財閥の財界人などが茶道具の価値を見出し、こぞって売立会で茶道具を買うようになり、明治末期から昭和10年代まで売立会は盛んに行われました。

茶道の文化的価値を高めた近代数寄者の茶会

明治の世になって、それまで茶道界を支えていた大名や上級武士、公家、豪商に代わって、近代数寄者と呼ばれる人々が茶道の世界を支えました。

明治時代初期のお茶の世界はは江戸時代の上流階級の名残りがありましたが、明治後半になると、新興の財界人たちが茶の湯に目を向けはじめました。彼らは日本美術として名物茶道具を積極的に買い込み、豪華で華やかな近代茶の湯の世界を切り開きました。彼らを近代数寄者と呼んでいます。

江戸時代の大名たちと同じく、男性社会で道具の誇示の側面が強い華やかな茶会が度々開催されていました。単なる遊芸に留まらず茶会は政界・官界・実業界の横断的なコネクション作りにも大いに役立っていたと考えられています。

近代数寄者の先駆けは安田善次郎

明治時代初期は茶道の暗黒時代と述べましたが、茶会が全く行われていなかったわけではなく、茶道を愛する人々の中で細々と行われていました。

その中心人物は安田善次郎です。安田善次郎は安田財閥の祖で、生まれは富山藩の下級武士です。

現在のみずほフィナンシャルグループをはじめ、損害保険ジャパン、明治安田生命、東京建物と次々と事業を起こした実業家です。

安田善次郎は茶人としての顔ももち、40歳前後のときに知人のすすめで表千家11代宗匠碌々斎(ろくろくさい)に入門し、茶名「松扇」を取得しました。

明治初期の茶会の記録

山本寛『古今茶湯集』の記録によると明治時代が始まってまもない時期でも多いときで年5回は茶会が行われていたようです。記録に残ってないものも含めたら実際にはもっと多くの茶会が茶道を好む人の間で開かれていたことが予想できます。

明治13年(1800年)からは安田善次郎も『松翁茶会記』を書き始め、安田善次郎が亭主となって開催した茶会は、明治元年(1868年)から31年(1898年)で70回です。同期間で次に多いのが松浦詮(まつうらあきら)で11回なので、安田善次郎が群を抜いて茶会を開催していたことがわかります。

明治初中期(1868年~1898年)の茶会の亭主と茶客

亭主 : この時期はまだ江戸時代の流れを汲んでいたからか、記録をみると茶会を開催する亭主の出自は大名、藩主、武士、公家が多く、また千家お家元や千家以外の流派の茶匠も亭主を務めています。

茶客 : 安田善次郎は70回亭主を務めているだけでなく、積極的に茶会に参加していたようで、30年の間に100回も参加しています。他にも渋沢栄一は5回参加していて、明治後半期の近代数寄者の中心人物となる益田孝、馬越恭平もこの時期から茶会に参加していることがわかります。

明治時代初期から中期の際立った茶会

井上馨の「八窓庵」移築披露茶会

日本史上、あまり評判がよくない井上馨ですが、近代数寄者の茶会が盛り上がる要因の一つを作ったのは井上馨の「八窓庵」お披露目のお茶会です。です。

「八窓庵」はもともと奈良の東大寺にあったお茶室で、取り壊されて風呂屋に30円で売り払われていたのを井上馨が買い取りました。

その後、東京の自宅に移築し、明治20年(1887年)に移築披露会を行ったのです。

「八窓庵」移築披露茶会には明治天皇が行幸されたということで、廃れかけていた茶道が復活するきっかけになったのはいうまでもありません。

大師会

世界初の総合商社・三井物産の創設者である益田孝が、弘法大師筆の書跡『崔子玉座右銘』を入手したので、それを披露するために自宅で行った茶会の名前です。

この茶会は明治29年(1896年)弘法大師の命日である3月21日に行われ、それ以後現在まで続けられています。茶会の開催場所は三渓園、畠山美術館、護国寺と移り、現在は根津美術館で毎年開催されています。

「大師会」は大正11年(1922年)に公益財団法人化し、「大師会」の茶会だけでなく護国寺や三渓園で「大師会」にゆかりのある近代数寄者の法要茶会や、著名人を講師に迎えて定期的に講演会を開催しています。

益田孝は「千利休以来の大茶人」と称され、茶名を「益田鈍扇(どんのう)」といいます。

東の「大師会」に対して、西の「光悦会」も有名ですが、こちらの茶会も現在も行われています。

明治時代後期は近代数寄者茶会の全盛期

近代数寄者茶会を全盛期に導いた和敬会

和敬会は16名の会員が順番で茶会を開催する明治32年(1899年)に発足された会のことで、松浦詮(まつうらあきら)伯爵が中心となって発足しました。

初期のメンバーと後期のメンバーでは、リードしていた人たちが変わります。初期メンバーは大名や公家出身で、次世代のメンバーはほとんど新興事業の実業家で占められていて、彼らエリートが定期的に茶会を通して横のネットワーク作りを行っていたと想像できます。発足された明治32年から42年の11年間で記録に残っているだけでも415回の茶会が確認されています。この11年間が近代数寄者による茶会が一番活発だった時代です。メンバーではありませんが井上馨や渋沢栄一も茶会に参加していた記録が残っています。

和敬会初期メンバー 第一ジェネレーション

旧大名・公家 : 久松勝成、東久世通禧、東 胤城、松浦 詮松浦詮(まつうらあきら)伯爵

大商人 : 金沢三右衛門(蒼夫)、三井高弘、青地幾次郎(湛海)

実業家 : 安田善次郎 / 安田財閥・ 石黒忠悳(ただのり) / 陸軍軍医総監・岡崎 惟素(これもと) / 日本郵船の創立者など。

和敬会のメンバー 第二ジェネレーション

旧大名や公家の出自の発足メンバーは天保期の生まれとなるため、彼らの死にともなって、新たに加わった第二ジェネレーションは、松浦詮の息子を覗いて新興実業家が主流になります。

爵位保持者 : 松浦厚 他

新興実業家 : 安田善次郎、三井高弘、三井高保 / 三井財閥、益田 孝 / 三井物産、加藤正義 / 三菱財閥、岡崎惟素など

近代数寄者茶会の終焉

近代数寄者の茶会熱を押し上げた和敬会は、1923年の関東大震災を機に解散したと言われています。その後しばらくして、昭和の中頃(1960年前後)になると、近代数寄者茶会は徐々に下火になっていきました。

名物茶道具は美術作品へ

数寄者たちは頻繁に茶会を開催しただけでなく、熱心な道具収集家でもありました。根津青山、原三渓、小林逸翁、畠山即翁、野村得庵、五島慶太等は貪欲なまでに茶道具を収集しておりました。

しかし、彼らが1950年前後に亡くなると、遺志や家族の希望によりそれらの収集された道具は美術館に収められていきます。

それにより、一般の人々が高価な茶道具を目に触れられる機会が増えたことを意味しますが、同時に近代数寄者の華やかな茶の世界は下火になっていったことを意味します。

  • 根津青山: 東武鉄道の設立者で政治家としても腕をふるった根津嘉一郎。1860年死去
  • 原三渓: 絹の貿易により富を築いた原富太郎。1939年死去
  • 野村得庵: 野村證券の創業者である野村徳七。 1945年死去
  • 小林逸翁: 阪急阪神東宝グループの創業者である小林一三。1957年死去
  • 五島慶太: 東急の事実上の創業者である。1959年死去
  • 畠山即翁: 株式会社荏原製作所の創立者・畠山一清。1971年死去

現代も続く茶道の女子教育の成功

明治初期は茶道の歴史の暗黒の時代でしたが、この暗い時代はそう長くはありません。明治の世が始まって10年もしない間に茶道の新しい時代が切り開かれます。

千利休はわび茶を推進しておりましたが、それでも江戸時代までの茶道は大名や武士などの男性社会で、彼らの茶会は高価な茶道具を所有して経済力を示す遊芸の要素が強かったです。彼らの時代が終わると茶道をリードするのは女性になり、大衆に広まります。

近代の茶道の立役者は女性

現在茶道をしている人は圧倒的に女性が多いですが、それはこの時代に女子教育の世界で茶道が取り上げられ、茶道を女性の教養として取り入れる動きが広まったことが影響しています。

裏千家の11代玄々斎宗匠は、日本文化が否定された明治時代初期の傾向を憂いて、当時の京都府知事に「茶道ノ源意」を提出し、茶道の文化的価値を認識させることに努めました。その活動の一つが茶道を若い人の教育に役立てようとして、女子教育や学校茶道につながります。

日本で初めて点茶を正式科目として取り入れた跡見学園

1872年に現在の京都府立鴨沂高校である京都府立新英学校及び女紅場に裏千家十二代又玅斎が茶道講師として迎えられました。

その後、現在の跡見学校(現 : 跡見学園)が1875年に東京の神田で開校しましたが、そこの教育科目に国語や算術の他に茶道が正式科目として取り入れられました。跡見学校はまだ女子教育は上流家庭の子女のみが受けるような時代からある歴史のある学校です。

跡見学校に続いて、日本各地の女学校で茶道が正式科目として広く採用されました。裏千家では教育者育成の夏期講習を開くなど、茶道教授の教育に力を入れ始め、それが今でも続いております。

明治時代が始まり日本の文化が廃れる危機に陥ってからわずか7年で新時代に即したかたちで茶道が教育の現場に現れたのです。

裏千家では現在でも大学は同志社大学、京都産業大学、京都学園、同志社女子大、立命館など、高校は京都光華中学校・高等学校、京都女子中学校・高等学校、立命館宇治高等学校などさまざまな学校の茶道部と繋がっています。

献茶・茶会や立礼の展開

近代数寄者や教育の場で茶道が広がり始めている間、お家元は時代に即したお点前を考案し、また各地で献茶や茶会を開催して茶の湯を大衆に広げる活動をしました。

日本各地で行われた献茶や大茶会

女子教育や立礼の始まりからほんの数年後には日本各地で献茶や大規模の茶会を開催され、多くの一般の人々が茶道に触れ合うきっかけを与えました。この時期は現在以上茶道が一般的だったようにすら思えます。

献茶 : 崇敬の心をもって、神仏や御霊にお抹茶をお供えする儀式で、今でも茶道裏千家・表千家のお家元や大宗匠、若宗匠が全国各地の神社仏閣に出向き行われています。

北野天満宮での献茶

近代の献茶が初めて行われたのは1880年で場所は京都の北野神社(現在 : 北野天満宮)です。それ以降定例化され、北野天満宮では現在でも北野天満宮献茶祭保存会にて、献茶祭が斎行されています。表千家、裏千家、武者小路千家、堀内家、久田家、薮内家が順番でご奉仕されています。

豊太閤三百年祭

1898年に開催された豊太閤三百年祭りは20日以上にわたって行われた大規模なお祭りで、献茶と様々な寺社仏閣で茶会が行われました。献茶は、豊臣秀吉をまつる豊国廟にて。茶会は北野神社・平安神宮・金閣寺・大徳寺など40箇所あまりの会場で催されました。

現代の大規模な茶会は2008年から開催されている「東京大茶会」がありますが、それでも開催期間は2週間ほどなので、この時代は今以上にお抹茶が身近なものだったように思います。

昭和北野大茶の湯

豊臣秀吉が開催した歴史に残る大茶会「北野大茶の湯」を記念した大茶会は2回開催されています。1回目は1886年(明治19年)、2回目は1936年(昭和11)です。特にこの2回目の昭和の北野大茶の湯は大規模で参加者1万人以上です。

こちらも北野神社だけでなく、光悦寺・大徳寺など周辺の自社仏閣で茶会が行われ次の段落で説明する近代数寄者、道具商、お家元の方々が席主となりました。

利休三百五十回忌

昭和北野大茶の湯が開催されてから4年後、今度は千利休の三百五十回忌を記念した献茶・茶会が1940年に開催されました。

こちらは4日間にわたって開かれたイベントで、初日の献茶の様子が全国にラジオ中継されました。テレビが一般化され始めたのはもっとあとの東京オリンピック(1964)の時期ですから、多くの日本人の情報源がラジオだった時代に全国放送されたのです。

初日の献茶に続いて、2日目からは大徳寺内に7か所の茶席が設置され、3日間で約5,000人の参加者がいました。

また、別の場所ではこの企画にちなんで東京大学教授や作家の吉川英治らの記念講演も開催され、その会場の聴衆は学生やサラリーマンで埋め尽くされていました。

それだけ大衆が茶道に興味を持っていたといえます。

茶道の海外への普及

茶道は新しくなった日本で時代に即したかたちで継続され、海外にも伝わります。

立礼が登場したきっかけは第一回京都博覧会

茶道が女子教育に取り入れられたのと同じ時期に茶道界に大きな変化が現れました。立礼の登場です。

初めて立礼がこの世に登場したのは1872年に開催された京都博覧会です。裏千家の11代お家元の玄々斎宗室が考案し、博覧会では外国人にお抹茶を振舞いました。

表千家では1875年に堀内宗完(ほりのうちそうかん)の主催したお茶会で使用された「好みタワフル夕顔蒔絵(ゆうがおまきえ)」が立礼卓のはじまりとされています。タワフルはテーブルのことで、夕顔の蒔絵が施されたテーブルで立礼のお点前がなされました。

茶道がこの時期に廃れなかった理由のもう一つは、先代が伝統文化を重んじながらも、時代に即したスタイルを考え抜いて実用化したからです。

この立礼スタイルの茶道は外国人をもてなすとき、野外の大茶会など利用範囲が広く現在でも盛んに取り入れられているお作法です。また正座が難しくなってしまった高齢の方にも広く受け入れられています。

『茶の本』の発行

岡倉天心の『茶の本』は1906年にアメリカで出版されました。わび茶の美意識・歴史・茶室・茶花などについての見解を述べ、西洋文化一辺倒の時代に東洋の美を伝えたのです。その後スウェーデン・ドイツ・フランス・スペイン語に翻訳されて、1929年に日本語訳が出版されました。

茶道の茶道はさらに多様化

近代の茶道は、おもに女子教育・献茶/茶会・近代数寄者の活動で支えられ、女子教育の影響か、女子のお稽古事、花嫁修業といったかたちで長く広まっていましたが、最近ではまたビジネスマンの間で茶道がちょっとしたブームになっています。興味を持ち始めました。

誰でも情報発信をできるようになったことで、SNSやユーチューブを活用して茶道風景を発信する方や、従来のように先生の自宅でお稽古をする稽古場から、大きい会場を借りて大人数を教える茶道教室、オンラインで茶道を教える方もいて、教え方のバリエーションも増えました。

茶道の現代社会での役割 

茶道の現代社会での役割は日本人の和のこころを取り戻すことかと思います。

茶道をしていると、「何故同じことを何回も繰り返すのだろう」「お点前が覚えられない」「先生に怒られないかな」などお稽古中に様々な余念が生まれますが、お点前を覚えることだけが茶道ではありません。

袱紗の扱いなどややこしいことが多いのも事実ですが、先生や同門に感謝する気持ち、毎回同じメンバーでのお稽古でも同じ日は二度と来ないので、その瞬間を大切に過ごすことに意識を向けるなど、そういった精神的な修行が大切です。

最近は昔の日本では起きなかったような卑劣な事件が起きていますが、日本人全員が茶道の心得を持っていたら、こんなに物騒な世の中にはならなかったのではないかと思います。

現代社会の茶道の役割は、日本人に再度「和敬清寂」の精神を宿らせることだと思っております。

近現代の茶道の歴史まとめ

江戸時代が終わり明治を迎えた時期、一時的には廃れましたが、教育者による女子教育・お家元の地道な活動による献茶・茶会、新興実業家による豪華な茶会と様々なかたちで支えられ、今もSNSやオンラインレッスンなど時代に即したかたちで伝えられています。

近代の茶道でそのどれかが欠けていたら今のようにお稽古事として一般化されなかったかもしれないと思うと先代たちの活動に感謝せずにはいられません。

この記事を書いた人
富士乃井 茶々

茶の湯サロン運営者の富士野乃井茶々です。

社会人になってから着物が好きになり、
着物を着たいという理由で茶道を始めました。

着付けと茶道を中心に日本文化が好きになり、
それを世界に発信するために英語の通訳案内士になりました。
2年半で4498人の欧米・アジアの方々をご案内。

現在は海外に移住し、海外から茶道文化を発信中です。

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