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茶道 裏千家とは
裏千家とは、茶道の流派の一つで千利休の曾孫である仙叟宗室(せんそうそうしつ)が築いた流派です。
この記事を読むと裏千家とはなにかがわかり、簡単な茶道の流派の成り立ちを時系列で理解できます。
茶道にはさまざまな流派がありますが、その中でも代表的な流派が千利休の血族が受け継いだ裏千家(うらせんけ)、表千家(おもてせんけ)と武者小路千家(むしゃこうじせんけ)で三千家(さんせんけ)と総称されます。
ブログ運営者が裏千家茶道を学んでいる関係で裏千家びいきの情報が多めですがお許しください。
千家の家系図
千利休が茶道を確立した歴史や日本の茶の湯の歴史については別のページにまとめますので、こちらでは流派の起こりについて解説します。
初代千家 千利休(せんのりきゅう) ( 1522年~1591年 )
二代目 小庵宗淳(しょうあんそうじゅん) ( 1546年~1614年 ) 千家茶道を再興
三代目 元伯宗旦 (げんぱくそうたん)( 1578年~1658年 ) 千家茶道の礎&わび茶の確立
四代目 仙叟宗室(せんそうそうしつ) ( 1622年~1687年 ) 裏千家を確立
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十六代目 千玄室(せんげんしつ) ( 1956年~ ) 当代家元
千家茶道 の再興
千利休が茶道を確立した際は現在のような流派はなく、利休が自害してから利休の子孫や利休の弟子らがそれぞれ利休の精神を守り伝えていきました。
利休が自刃したあと、利休の娘婿・養子であり後継者だった小庵宗淳(二代目)は会津若松の蒲生氏郷に預けられて、利休の孫である宗旦(三代目)は大徳寺で修行をしていたため、実質一家離散状態でした。
利休切腹から3年後、秀吉の怒りも解けて小庵は京都に戻ることを許されました。秀吉の赦免を伝える徳川家康と蒲生氏郷の連書状である「小庵召出状(しょうあんめしだしじょう)」は、千家の再興を意味する書状として現在でも家元に伝わっており、初釜を飾る掛物として秘蔵されています。
小庵は京都に戻り京都にある本法寺(ほんぽうじ)の近くに住み始め、息子の宗旦も大徳寺の修行を終えて京都に戻って来たため、小庵と宗旦はともに千家茶道の再興を果たしました。小庵は本法寺の向かいに『不審 菴』『残月亭』などの茶室を設け、利休の教えを守りました。余談ですが画家の長谷川等伯は本法寺にゆかりがあり、小庵の父である千利休とも親交が深かったのです。
清貧を極めた「わび宗旦」
利休の孫ということで宗旦は多くの大名から茶匠となるよう誘いがあったと想像できますが、祖父である千利休の非業の死の再現を恐れてか、生涯を通じて仕官することはありませんでした。「わび茶」を徹底させて利休の精神を受け継いで千家茶道の礎を築いたのは利休の孫の元伯宗旦(げんぱくそうたん)です。大名に仕えない清貧な暮らしぶりは「わび宗旦」とあだ名をつけられるほどだったようです。ですがその徹底ぶりが宗旦の子孫のさらなる活躍に結び付いたのでした。
宗旦自身は仕官を断り続けてきましたが、息子たちの仕官には尽力し、次男、三男、四男を出仕させています。そのとき日本は徳川の世になり社会情勢が安定したため、茶の湯の社会的立場も安定すると目論んだのでしょう。
茶道三千家の起こり
茶道三千家は宗旦の息子たちから始まります。表千家をおこしたのが三男の江岑宗左(こうしんそうさ)、裏千家をおこしたのが裏千家の初代お家元四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)、武者小路千家をおこしたのが次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)です。
宗旦には4人息子がいて、長男の閑翁宗拙(かんおうそうせつ)、次男の宗守、三男の宗左、四男の宗室です。長男の宗拙は宗旦に勘当され千家を出てしまったため、長男は千家を継いでいません。しかしあとになって許されて宗拙作の茶杓など現代に伝わるものもあります。
表千家のはじまり
三男の宗佐は幼少期から宗旦の後継者として養育され、紀州徳川家に仕えました。紀州徳川家は家康の十男である徳川頼宣の家系です。宗左の血族は幕末まで紀州徳川家に茶頭として仕えました。
宗佐が紀州徳川家に出仕してまもなく宗旦は隠居し、「不審庵」を宗佐に譲り、家督も継がせました。これが表千家の始まりです。宗旦は不審庵の北側に隠居屋敷を建てて四男の宗室と共に住みはじめました。その隠居屋敷内に裏千家の代表的な茶室である「今日庵 ( こん に ち あん ) 」があります。
裏千家のはじまり
四男の宗室は、加賀前田家に茶頭として出仕しており、のちに宗旦の隠居屋敷を継ぐことになりますが、それが裏千家の始まりです。宗佐の母屋との関係で「裏の屋敷」などと呼ばれていたことから「裏千家」と呼ばれるようになったと考えられています。代表的な茶室は裏千家今日庵と又隠(ゆういん)です。
武者小路千家のはじまり
次男の宗守は塗師を志して吉文字屋与三右衛門の養子になりましたが、弟2たちが千家茶道の流派をおこしたことを受け、吉文字屋の家業を女婿である中村八兵衛に譲り武者小路千家をおこしました。中村八兵衛は塗師の初代宗哲です。宗守は千家に復帰後、高松松平家へ茶頭として出仕しています。
裏千家は時代ごとの「今」にかなう茶の湯を実践
裏千家の学習者が一番多いですが、それは時代に合ったスタイルを提案し続けて、組織だっているからではないかと筆者は思っております。
江戸末期には外国からの賓客をもてなすために「立礼」を考案しました。江戸幕府が終わり時代が変わってからも一般の方も茶道を学べるようにと学校茶道も始めました。戦前から海外への茶道文化の普及に取り組んでいたことも興味深いです。
明治時代後期には衛生観念が向上したことから濃茶の回し飲みをしない「各服点」が考案され、コロナ禍において「各服点」は復活しました。
また裏千家の事務局ともいえる淡交会ではさまざまな講演会や展示会を開催しております。
裏千家を外国人に説明してみよう
観光で茶道体験をしようとしている外国人に、裏千家が何かの説明まではする必要はないと筆者は思っていますが、たまに茶道体験の通訳をするにあたってお茶の先生が「私たちは裏千家です。」などと言うことがあります。それをそのまま訳しても外国の方は「?」なので、もしそのようなシチュエーションになってしまったら、以下のような説明を加えるとよいかと思います。
「茶道には流派がいくつかあります。空手や合気道にも様々な流派があるのと似たような感じです。それぞれの流派は茶道の大成者である千利休の子孫や弟子たちに引き継がれ、それぞれの作法や伝統があります。千利休の子孫によってつくられた流派は裏千家、表千家、武者小路千家です。お抹茶の点て方や作法や道具に多少違いがありますが、お客様に心を込めて最高のおもてなしをするという本質はどの流派でも変わりません。本日体験して頂くのは裏千家です。」
There are several different schools or styles of Japanese tea ceremony. Just like there are also various schools in karate or aikido. Each tea ceremony school has its own special practices and traditions that have been handed down by descendants and students of Sen no Rikyu, a renowned tea grandmaster.
The schools established by descendants of Sen no Rikyu are Urasenke, Omotesenke and Mushakojisenke. While there may be some differences in the way tea is prepared, etiquette, and utensils used among these schools, the fundamental essence of wholeheartedly providing the best hospitality to guests remains unchanged. Today, you will experience Urasenke style of tea ceremony.