彦根城のふもとにある日本庭園『玄宮園』にて海外のお客様にお抹茶体験をしてもらいました。
なぜここでお抹茶体験をしたかというと、ツアーの主催者の方が以前、イタリア人をお連れした際に非常に喜ばれたという経験があったため、今回も彦根城だけでなく是非こちらにもお連れしたいという強いご希望があったからです。
わたくしがご案内したのは中国・韓国・アメリカ・フランスなどインターナショナルな人々でしたが、さて彼らの反応は?
彦根城のお膝元の日本庭園『玄宮園』の簡単な歴史
彦根といえば、彦根城やひこにゃんが真っ先に思いつきますが、今回のお抹茶体験の舞台は玄宮園です。
玄宮園は1677年に築造された庭園のことで、文化財と指定されており、指定名称は『玄宮楽々園』といいます。
『玄宮楽々園』は池泉回遊式庭園の『玄宮園』と御殿に臨む池泉・枯山水庭園である『楽々園』の総称です。
江戸時代は『玄宮園』は”おんにわ”などと呼ばれ、『楽々園』は”けやきごてん”などと呼ばれ、『玄宮園』は藩主の慰楽の場、交際の場、餐応の場として使用されてきました。
城下町の反対側にあるため、静かな環境の中で風光明媚な景色を楽しめる点が彦根藩主に愛され続けた理由の一つといえそうです。
『玄宮楽々園』は4代藩主の井伊直興(なおおき)が家督を継いだ次の年(1677年)から造営が始まり約2年で完成しました。そのあと倹約令などにより規模の縮小を経て、1812年の11代の井伊直中の隠居に際して、『楽々園』の再整備が開始され、当時は現存している建物の10倍の規模にまで膨れ上がりました。
彦根城藩主としてもっとも名高い彦根藩主井伊直弼も幼少期は『楽々園』にある欅御殿で過ごしました。
『玄宮楽々園』はそのあと時代の流れに翻弄されます。
大政奉還や廃藩置県の影響を受けて、1871年には臨池閣(りんちかく)という玄宮園内にあった茶屋の一つは民間に払い下げされます。
臨池閣は『彦根楽々園』と名前をかえて1881年(明治14年)から料理旅館として民間の業者に運営されます。
さらに1886年には井伊家が『彦根楽々園』を買い戻し、『八景亭』という旅館も開業開始。
1947年に彦根市は井伊家より『玄宮楽々園』を取得することになります。(二つの旅館は営業継続)
そして、1951年に史跡・名勝の指定を受け今にいたります。所有者は彦根氏です。
『彦根楽々園』は1994年まで営業し、『八景亭』は2017年まで営業されていました。
今は二つとも文化財として管理されています。
15分の抹茶体験の流れ
『玄宮園』のお抹茶体験は『鳳翔台』という園内の茶屋で行われます。『鳳翔台』からは彦根城・庭園全体・『八景亭』がよく見えます。
お菓子を頂いて出来上がったお抹茶を頂くスタイルのシンプルなお抹茶体験を提供しております。
実際には、『鳳翔台』はお茶室ではなく、藩主が客をもてなすための客間です。茶室は『鳳翔台』の裏にひっそりとありますが、現在は公開されていないようです。『鳳翔台』からの方が景色が楽しめて開放的なため、こちらでお抹茶を頂けるようにしたものと思われます。
1回の定員は12名とのことでしたので、今回は1回15分を2回転で合計24名の方をご案内しました。
<当日の流れ>
- 着席していただく
- 掛け軸や『鳳翔台』の名前の由来をご説明
- お菓子の食べ方をご案内
- お抹茶の頂き方をご案内
- 質疑応答
お抹茶体験中にお話したこと
せっかく海外のお客様を玄宮園にお連れしてお抹茶を飲んでもらうので、ただ抹茶を頂くだけではもったいないです。
限られた時間であったことと一度に12名の方にお伝えしないといけないので細かいことはお伝えできませんでしたが、以下の内容をかいつまんでご説明しました。
- 『鳳翔台』の名前の由来
- 掛け軸
- 借景
『鳳翔台』の名前の由来
鳳翔とはphoenixのことで、phoenixが飛び立つ場所という意味で非常に神々しい名前が付けられた建物である。こちらは実際には茶室ではなくて、大名がお客様をもてなすために建てられたサロンです。実際にお茶会をする茶室はうしろにある建物です、とご案内。
掛け軸について
掛け軸は必ず茶室にあるもので、お茶会のテーマなどが書かれています。こちらは井伊直弼の孫にあたる16代当主の井伊直愛の直筆の掛け軸です。
掛け軸に書いてあること
「神鳳栖其林」
神鳳(しんぽう)その林に栖む(すむ)と詠みます。
神の使いである鳳凰がこの林(玄宮園)に栖んでいることを意味します。
神の使いが栖むこの庭園のお部屋でお抹茶を頂けるとはなんとも贅沢な時間です。
借景について
玄宮園に限らず日本庭園を語るときにはずせないのが借景です。
まず見えるもの、当時見えたものの話をします。
以前は琵琶湖の内湖である松原内湖があって、その湖にボートが行きかっているのが鳳翔台から見えたそうです。
また後ろを振り返ると彦根城が見えます。
この内湖の風景や彦根城はたまたま見えるわけではありません。この日本庭園を建築する段階で鳳翔台から見える景色も庭園の一つとして計算して作られているのです。
これを借景 Borrowed sceneryと呼んでいます。
鳳翔台の前に見える建物は『八景亭』と呼ばれた料理旅館で2017年まで営業していました。今は文化財として管理されているようです。
このようなお話をしている間にお菓子を召し上がっていただきました。
そしてお抹茶が配分され始めたらお抹茶の頂き方をご案内します。
ただ飲むだけでなく、まず背筋を伸ばしてお茶碗を大事に手の平におき、おし頂く。
このデモンストレーションをしているときは、空気が変わり一椀の茶碗にここまで敬意を示すことに感銘を受けていらっしゃいました。
飲み方、飲み終えたときに音をだすことなどお馴染みのご案内をして、場が落ち着いたら茶道は亭主と客の心のコミニケーションで、お抹茶を通して心が通いあうこと、これが茶道であることをお伝えしました。
ほんの15分程度の場でしたが皆さま興味深く話を聞いて下さり、また楽しんでお抹茶を召し上がられました。
鳳翔台で食べれるお菓子
埋木(うもれぎ)
1809年から続く和菓子屋さん『いと重菓舗』の代表銘菓。埋木の由来は井伊直弼が青春時代を送った埋木舎より。(本記事の後半に解説あり。)井伊家ご用達の製菓で、直弼が参勤交代の際に贈答品として使用された『益寿糖』(えきじゅとう)が現在でも作られています。
お客様が興味を抱いたこと
15分という限られた時間内だったため遠慮されていたのか、さほど多くの質問はありませんでした。
中国の女性が先にお菓子を食べるということに非常に疑問と興味を抱いており、何回もお菓子を先に食べるのよね?と聞かれたことが印象的でした。
実際に抹茶というお茶の飲み方は中国から伝わったものですが、中国ではそうではないようなので、甘いものから口にすることに違和感があったのでしょう。
お抹茶は少し苦いので、先にお菓子を食べて口の中を甘くしておくからこそ、そのあとに頂くお抹茶の味が引き立つのです。
お菓子がメインではなく、お抹茶がメインです。
茶道の世界ではいつもお客様にお抹茶を美味しく頂いてもらうことが第一です。
お抹茶の美味しさを引き立てるためにあるのがお菓子です。
とはいっても、お客様が美味しく召し上がることがなによりですし、日本人以上にお抹茶に馴染みのない海外のお客様でしたから、「基本的にはお菓子を全て食べ終わってからお抹茶を頂きますが、お好きなように食べてもらって結構ですよ。」とお伝えしました。
お抹茶を飲むという行為でお客と亭主の心のコミュニケーションがうまれ、雰囲気が和みます。
またお菓子を作ってくれた方、お茶碗を作ってくれた方、全てに感謝し尊敬の念をもちありがたくお抹茶を頂きます。
これが茶道で大切なことですよ、とお伝えしたことで、ただ茶を飲むだけの行為で場に一体感が生まれ、場が和やかになり、一座建立したことを肌で実感しました。
15代お家元である大宗匠が掲げる『一盌からピースフルネスを』とはこのことだと確信しました。
必ずしも本格的な茶事を開催しなくても、たった15分でも客と亭主が心を通わすことができるのです。
短い時間でも茶道の核心に触れ、海外のお客様に和敬清寂の精神をお伝えできたことを誇りに思いました。
井伊直弼の生い立ち
彦根城といえば井伊直弼に触れないわけにはいかないので、井伊直弼についても紹介いたします。
井伊直弼の人生は大きく分けると3つの時期があります。
幼少期 : 17歳までは穏やかに槻御殿で過ごす。
埋木舎期 : 17歳から32歳まで。埋木舎で今でいうニート(勉強熱心なひきこもり)。
開花期 : 32歳から46歳まで。彦根藩主から江戸幕府大老へと昇進し、安政の大獄で暗殺される。
井伊直弼といえば、安政の大獄で優秀な人物を大量に処罰し、桜田門外の変で殺されてしまったというあまりよいイメージをお持ちでない方も多いかもしれませんが、実は井伊直弼は茶道の世界では外すことのできない著名な大名茶人です。
茶道は武士の嗜みでしたから、井伊直弼が茶道をしていたこと自体は驚くことではありませんが、彼の茶道の鍛錬は並々ならぬものでした。
今も彦根には江戸時代から続く製菓が残り、茶道の活動が活発なのは間違いなく井伊直弼の懸命な活動の賜物です。
埋木舎での生活を余儀なくされた青春時代
大名家に生まれ、江戸幕府の大老にまで昇りつめているわけですから、よほど順風満帆なキャリアを歩んだのかと思いますが、実は井伊直弼の青春時代は大名家の者としては貧しい暮らしを強いられていました。
17才までは玄宮園内にある欅御殿(けやきごてん)で父と弟と暮らしておりましたが、一番上の兄が藩主になってからは藩の規則に基づき、御殿を追い出され『埋木舎』と呼ばれるお堀の外の尾末屋敷に住むことになりました。
当時、城の世継ぎになるか、養子に出て他家に仕えるか、出家して僧侶になるかが出世の道でしたが、養子に行く先もなく、僧侶になるわけでもなかった井伊直弼は尾末屋敷に屋敷替えをすることになり、ぎりぎり生きていく程度の給料だけをもらって生きていくことになりました。
その尾末屋敷のことを『埋木舎』と名付けたのは井伊直弼自身で、養子に行く先もなく、尾末屋敷に埋もれて終わるのか、という自虐的な意味で名付けたものと思われます。
しかし養子の面接で落とされ、故郷に戻って来た際に以下の歌を詠んでいますので、実際には精神的には埋もれることなく豊に生きようとしている意思が感じられます。
世の中を よそに見つつも 埋もれ木の 埋もれておらむ 心なき身は
埋木舎で培った文武両道
井伊直弼は指折りの大名茶人ですが、その素養は埋木舎で培われました。
井伊直弼は彦根城を追い出されても朽ちることなく、「一日二時(4時間)眠れば足りる」といって文武の修練を積んだといわれております。
茶道・和歌・能・謡曲・焼き物(湖東焼や楽焼)・国学・蘭学・書・禅・仏教といった文化人としての修練に加えて居合術・柔術・弓術・剣道・兵法などの武道にも練達しており、文武両道を極めた青年でした。
中でも特に茶道・和歌・謡曲に熱を注いでいたので、「チャ・カ・ポン」とあだ名されていたようです。(ポンは太鼓の音から。)
直弼は埋木舎に住み始める前の13歳のときから禅を学んでおり、15歳の頃から武士の茶道として現在も引き継がれている石州流の茶の湯の稽古を受けています。
禅の修行と埋木舎での清貧な生活がよりいっそう茶道の精神の習得に繋がり、井伊直弼の修練は深まりました。
また習っている流派以外の茶の湯についてもかなり研究をしていたようで、若干22歳にして茶の湯に関する書籍、『栂尾みちふみ』を著します。
そのあともいくつか書籍を著し、井伊直弼の代表的な著書は暗殺される約3年前に完成されたと見られる『茶湯一会集』です。
『茶湯一会集』の中には誰しもが聞いたことがある「一期一会」の語が記載されています。
「一期一会」と同じ意味の言葉で「一期に一度の会」があり、これは千利休や利休の弟子の山上宗二まで遡ります。「一期一会」と文書の中で表現しているのは井伊直弼の『茶湯一会集』が最初であろうといわれています。
井伊直弼は40回ほど自身が亭主となって茶会を開き、客として同席した茶会も含めると記録に残っているだけでも200回は茶会に参加しています。
また直弼が主催する茶会には当時としては珍しく女性や使用人が同席していた記録もあり、茶の湯の世界では皆平等ということを実行していました。井伊直弼は家族や家臣に熱心に茶道を指導し、17人の弟子に茶名を与えました。
井伊直弼は日本の政治史上は賛否両論が残る大名ですが、茶道の世界では今も残る茶道の精神を表す名言を残した大名茶人なのです。
まとめ
井伊直弼の生い立ち、茶人としての偉大さをお伝えしたく、後半は井伊直弼の話がメインになってしまいましたが、それだけ茶道と繋がりが強い土地でお抹茶体験を提供し、一座建立できたのは非常によい経験となりました。
彦根市に観光に行く機会がありましたら、彦根城だけでなく是非とも玄宮園の鳳翔台にて抹茶を飲んで頂きたいです。
プチ情報
彦根城の周りでお抹茶体験できる場所は2箇所あります。
①玄宮園内の『鳳翔台』(ほうしょうだい)
休館日 : なし
営業時間 : 9:00~16:00
料金 : 抹茶セット 500円
定員 : 12名
予約の必要性 : 2~3人の少数であれば予約は不要ですが、10名前後の場合は予約されることをおすすめします。
予約方法 : 電話またはメール
電話番号 : 0749-22-2742
メール : info@hikonecastle.com
①天守の一歩手前の『聴鐘庵』(ちょうしょうあん)
休館日 : 12月29日~1月2日まで
営業時間 : 9:00~16:00
料金 : 抹茶セット 500円
定員 : 8名
予約の必要性 : 2~3人の少数であれば予約は不要ですが、5名以上の場合は予約されることをおすすめします。
予約方法 : 電話またはメール
電話番号 : 0749-22-2742
メール : info@hikonecastle.com
本記事は以下のサイトや書籍、玄宮楽々園のパンフレットの情報を元に作成しました。
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