茶の歴史

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茶道歴史

日本における茶道の歴史だけでなく、お茶の起源・日本にお茶が伝来するところまで遡り、どのようなステップを経て今の茶道になったのかをまとめます。

茶の起源から現代の茶道に至るまでの通史です。詳しくは随時それぞれ別記事にまとめます。

茶の起源とはじまり

茶道の歴史は村田珠光の活動から500年前後ですが、人間が茶を体内に入れた段階まで遡ると4000年以上前までさかのぼるといわれています。

茶の木の原産地はインドのアッサム地方や中国の四川・雲南省あたりと考えられていて、茶を飲む習慣は四川省の方から広まったと考えられています

茶と人間の文化は4000年以上前に遡る

当時の飲み方

4000年以上前とのことで、神話に近い内容ではありますが、中国の伝説の帝王、神農が解毒薬として用いたのが初めて人間が茶を取り入れたタイミングといわれています。

文献

『神農本草経』という中国最古の薬物書にそのような記録があるそうです。『神農本草経』は神農がまとめた著書ではなく、西暦200年ころに編纂された書物です。

紀元前には茶は商品として流通

起源前頃というと日本は弥生時代ですが、すでにこの時期には茶が商品として流通していた記録が残っています。

当時の飲み方

「餅茶」といわれる茶葉を団子状に固めたものを溶かして飲んでいたと推測できます。

文献

『どう約』という奴隷売買の契約書に、「茶を烹る」「武都で茶を買う」といった語があります。

喫茶の習慣は唐の時代に大流行

唐 ( 619年~907年 ) の時代には茶を飲む習慣が広まり、当時の都の長安にはすでに喫茶店が繁盛し、寺院では座禅の合間に茶を飲んでいました。

当時の飲み方

当時は団茶という飲み方が一般的でした。

茶葉を蒸して乾燥させて、臼でついて型に入れて固めたものを団茶と呼びます。茶を飲むときは、その団茶を粉末状態にします。

『茶経』によると、釜で湯を沸かして、茶の粉末を入れ、泡立ったら茶碗に汲んで飲んでいたことがわかりまます。

文献

『茶経』は陸羽によって著された世界発の茶書です。『茶経』は日本でも非常に評価が高い本で、江戸時代には複数回にわたって印刷・出版されています。

抹茶法は宋時代にはじまる

現在のお抹茶の飲み方の原型に近い飲み方は、宋 ( 960年~1279年 ) の時代に始まりました。記録によると抹茶法以外にも様々な飲み方の記録があり、宋時代の人々はどうしたらお茶を一番おいしく飲めるのかを試行錯誤していたような感じがします。

当時の飲み方

少しづつお湯を足して茶匙で泡立てる方法や、現在の点て方のように、一気にお湯を入れて茶筅でかき混ぜる方法、7回にわけてお湯を注ぐ方法などがありました。

文献

『大観茶論』に初めて「茶筅」という言葉が登場します。ただ、『茶具図賛』という茶道具が擬人化して描かれた書籍には現代の茶筅とは少し違った、穂先が丸まっていないものが描かれているので、時代を経て今の茶筅のかたちに変遷したと考えられます。

明時代以降は中国では急須スタイルが定番化

明 ( 1368年~1644年 ) の時代になると、抹茶法は廃れてしまい、煎茶のように急須にお茶をいれて湯を注ぐ飲み方が定番化したそうです。

日本は宋時代に取り入れた抹茶法がそのまま残り、中国では急須スタイルで中国茶のお作法が確立されていきました。

日本に初めて茶が持ち込まれたのは平安時代

中国では日本の弥生時代の頃から茶が流通していましたが、日本に茶が入ってきたのは平安時代(794年~1185年)です。中国に留学していた最澄が永忠とともに帰国した際 ( 805年 ) に茶の木の種を持ち帰ってきて、比叡山の麓に植えたのがはじまりです。その茶園は『日吉茶園』といって今も滋賀県大津市に残っています。当時は茶は高級品だったので、はじめは引茶という朝廷行事で使われていたという記録があります。

最澄・永忠が帰国してから10年後の815年、嵯峨天皇が近江を行幸された際に、永忠がお茶を捧げたところ、非常にお気に召したようで、今の京都や滋賀県に茶樹を植えさせて献上させました。こうして茶は嵯峨天皇を中心に貴族社会や僧侶の間で受け入れられていましたが、894年の遣唐使の廃止をきっかけに茶が輸入できなくなり、茶を飲む習慣はなくなりました。日本国内に茶園はあったものの、当時はまだ日本の茶の品質はよくなく、もっぱら中国からの輸入品が飲まれていました。当時はまだ抹茶の飲み方は存在しておらず、団茶という飲み方でした。

日本での抹茶のはじまりは鎌倉時代

日本で茶を飲む習慣が復活するのは鎌倉時代(1185年~1333年)です。

栄西(えいさい/ようさい)禅師が禅を学びに中国に留学し、帰国した際に新しい茶の飲み方である抹茶法も伝えたことが、茶の湯が日本の文化に深く根付くきっかけとなりました。

といっても、栄西の帰国後すぐに広まったわけではなく、広まったのは、1191年に帰国してから23年経過した1214年以降です。

1214年に二日酔いに苦しむ将軍に栄西が抹茶を献上したところ、すっかり治ったという話が武士の間に広まり、最初は薬として流行しました。

鎌倉時代後半からは唐物の輸入が増え、唐物を鑑賞するためのお茶会が開催されていました。鎌倉時代のこの流れは、茶道の歴史的変遷に大きな影響を与えました。

抹茶が武士の間だ広まったきっかけ

1214年のある日、三代将軍源実朝が二日酔いで苦しんでいました。将軍は栄西に加持祈祷を依頼し、その際に茶と『喫茶養生記』を献上しました。茶を飲んだ将軍はすっかり体調がよくなったという記録が『吾妻鏡』に残っております。栄西はその翌年に亡くなっているので、すごいタイミングで将軍に茶と『喫茶養生記』を献上できました。『喫茶養生記』は日本最古の茶書になります。

それから武士の間でも茶が流行しますが、最初は薬として流行します。茶が流行するのに伴い、中国から掛物や茶道具も輸入されるようになり、鎌倉時代の後半には中国から輸入された唐物とよばれる茶道具を鑑賞するお茶会が開かれていました。

南北朝・室町時代に様々なスタイルで広がった茶文化

鎌倉時代後半から唐物がたくさん輸入され、唐物を鑑賞する会が開かれていましたが、茶を飲んで産地をあてるギャンブル要素の強いゲーム、闘茶も流行しだしました。

闘茶は茶寄り合いという豪華な食事を食べて茶を飲むパーティーの中のイベントで、特に武士たちの間で大流行しました。

闘茶は室町幕府の初代将軍足利尊氏に禁止されましたが、それでも水面下では実施されていたようです。

一方で、三代将軍足利義光(将軍在職期間1369年~1395年)の時代になると中国(明)から多くの絵画や陶磁器を輸入し、それらを会所に飾ってもてなす優雅で華やかな茶会も催されました。この時期の茶会は今の茶事に非常に近いかたちをとっています。

さらに時代が進んで八代将軍足利義政(将軍在職期間1436年~)の時代になると、簡素な茶会もはじまります。義政はわび茶の開祖である村田珠光に茶を学んだため、それまでの贅沢な茶会より禅の教えにそった簡素な茶会を好みました。

わび茶のはじまり

侘茶の始まりは15世紀後半、室町時代後半になります。

それまでは裕福な階級の人のみが茶会をできましたが、唐物一点張りだった茶の湯の世界に禅の精神を持ち込み、唐物でなくても伊勢や備前の焼き物でも心に染み入るものだ、とあるものの中から美しさを見出しました。

珠光は一休として有名な一休宗純のもとで禅の修行をし、能阿弥に茶を学んでいたので、茶の湯に禅の精神性を押し出しました。

わび茶が広まったことで一般の人々にも手が届きやすくなり、室町時代後半には寺社の門前などで茶を売る人たちが表れ始めました。抹茶一杯が一銭で売られていたので、それを一服一銭の茶といいます。

わび茶の精神は古市ちょういんなどの弟子、少し時間が経過してから竹野紹鷗へと引き継がれ、安土桃山時代にや千利休が確立します。

安土桃山時代の茶の湯と千利休

織田信長がお茶が好きだったことは歴史好きの人は知っているかもしれません。

信長の名物狩り

織田信長が茶道具を集め始めたのは、1568年に室町幕府最後の将軍足利義昭を奉じて上洛し、山城・摂津・和泉などを制圧しはじめたころです。

当時は功績をあげた武士に領土を与える仕組みでしたが、与える領土がなくなってきたので、信長は高価な茶道具に目をつけて、功績をあげた武士には領土の代わりに茶道具を与えることにました。

豪商の大文字屋の肩衝茶入・那須茶入、花入や天王寺屋津田宗及の花入を買い取ったほか、今井宗久からは茶壷と紹鴎那須茶入れ、松永弾正久秀からは茶入れ、白天目茶碗が献上されました。

御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)

信長は茶会の価値を高めるために功績をあげた武将に名物道具を与え、茶会を行うことを許可制にしたことを御茶湯御政道といいます。これにより茶会を開催することのステータスが上がります。

豊臣秀吉は本能寺の変で信長がなくなる1年前に茶会を開催することを許可され感激していた記録が残っているほどです。

織田信長は今井宗久・津田宗及・千宗易(千利休)を仕えさせ、これらの茶人はそのまま秀吉の茶頭になります。

秀吉の茶会

本能寺の変で織田信長が滅びたあと、秀吉は次々と茶会を開きます。初めに大阪城で「御道具そろえ」ということで名物茶道具40点を披露しています。

1585年、大徳寺では200人規模の大きな茶会を開き、家臣や茶人を招き秀吉自身も茶の点前をした記録が残っています。

同年、天皇が公式に茶の湯の席に入った禁中茶会も開催されます。これは秀吉が開催した関白任官のお礼の茶会で、その翌年には有名な黄金の茶室の茶会が催されます。

秀吉の大茶会で一番大がかりな茶会は1587年の北野大茶の湯です。ここでも黄金の茶室が登場し、秀吉が集めた名物道具50種ほどを披露して、経済力・権力を示し、秀吉は茶の湯の保護者であることをアピールしました。

真実はわかりませんが、最初の方は千利休は秀吉に仕え、うまくやっていましたが、のちのち千利休の目指す茶道のスタイルと秀吉の茶会にずれが生じます。

千利休は村田珠光から引き継がれるわび茶の支持者であるため、黄金の茶室など秀吉が好みの派手な茶会は本心ではやりたくなかったのではないか、と思われます。

秀吉が派手な茶碗で飲みたかったのに、真っ黒の楽茶碗を差し出したのも有名な話ですね。

千利休は1591年に切腹を命じられてしまい、一時千家は京都を追い出されてしまいますが、江戸時代になると千利休の息子や孫、千利休の弟子によって千利休の茶道は受け継がれていきます。

江戸時代は大名茶と茶道が並行

江戸時代前期

江戸時代前期の茶道の歴史

1. 大名の茶の湯

  • 古田織部(ふるたおりべ): 室町時代から江戸時代初期にかけて活躍した茶人で、織部焼の創始者としても知られる。茶道において新しい茶碗や茶釜のスタイルを提案し、茶の湯の美意識に大きな影響を与えた。
  • 千宗旦(せんそうたん): 戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した茶人で、千利休の孫弟子にあたる。茶の湯の精神性を重視し、「侘び寂び」の美意識を確立したことで知られる。
  • 金森宗和(かなもりそうわ): 福島藩主の茶人で、茶道を奨励し、茶の湯を広く普及させた。茶道を文化として支え、茶人たちの交流の場を提供した。

2. 小堀遠州(こぼりえんしゅう)

小堀遠州は、江戸時代初期に活躍した茶人で、庭園の造形と茶室の設計に優れた才能を持ち、茶道と庭園を融合させる手法を確立しました。彼の手掛けた庭園や茶室は、茶の湯の雰囲気と茶人たちの精神性を引き立てる重要な要素となりました。

3. 禁中茶会

禁中茶会(きんちゅうちゃかい)は、江戸時代前期に江戸城内で行われた茶道の大茶会で、将軍が主催した茶会です。禁中茶会は豪華絢爛な茶の湯として知られ、大名や公家たちが参加し、茶道と芸術が華やかに交わされました。将軍自らが茶人としての儀礼を行うことで、茶道の普及と庶民の茶道への理解が進んだとされています。

4. 後水尾院の茶

後水尾院は、江戸時代前期の女性天皇であり、茶道の愛好者でもありました。彼女は茶人たちを庇護し、茶の湯を奨励しました。また、後水尾院は茶の湯を通じて公家社会との交流を深め、茶道が日本文化の中心的な要素として根付く基盤を築く一助となりました。

江戸時代前期におけるこれらの茶道の重要な人物や茶会は、茶道の歴史と発展に大きな影響を与えました。大名たちの茶の湯の奨励や後水尾院の茶への愛好は、茶道が社会的なイベントとして根付く一方で、茶人たちの心の教養や美意識の深化にも寄与しました。これらの要素は、茶道が江戸時代を通じて日本文化の一部として継承されていく基盤を築いたのです。

江戸時代中期の茶の湯

. わび茶の拡大 – 武家茶道の主流となった片桐石州の茶の湯

江戸時代中期に入ると、茶道の中でも特に「わび茶」が拡大し、武家茶道の主流となっていきました。片桐石州(かたぎりせきしゅう)は、江戸時代中期に活躍した茶人で、わび茶を強く推奨しました。彼は茶道の精神性や質素な美を追求し、茶の湯において簡素で心静かな雰囲気を重視しました。片桐石州の指導により、茶人たちの間でわび茶の流派が広まり、茶の湯のスタイルが大きく変化していきました。

2. 三千家のはじまり – 千宗旦の息子たちが三千家のはじまり

江戸時代中期に茶道に新たな流派が誕生しました。それが「三千家」です。三千家は、茶人千宗旦(せんそうたん)の息子たちによって創始されました。千宗旦は、前述の片桐石州と同様にわび茶を重視し、侘び寂びの美意識を確立した茶人でした。彼の息子たちは父の教えを受け継ぎながら、独自の茶の湯のスタイルを発展させ、それぞれが「三千家」と呼ばれる茶道の流派を興しました。

3. 禁中・公家の茶会 – 後西天皇の茶の湯

江戸時代中期には、茶道が公家や皇室にも広く受け入れられ、茶会が盛んに行われました。特に禁中(きんちゅう)茶会は、江戸城内で将軍や幕府高官によって開催される茶会で、華やかな茶の湯が楽しまれました。公家たちも茶道を愛好し、後西天皇は茶の湯を嗜むことで知られています。彼は茶人たちを庇護し、茶道の普及と発展に貢献しました。

江戸時代中期において、わび茶の拡大と三千家の誕生は茶道の豊かな多様性を生み出し、茶の湯のスタイルと美意識が進化していきました。また、茶道の社会的な地位が高まり、公家や皇室との交流を通じて茶道が日本文化の中心的な要素として発展していく基盤が築かれたのです。

江戸時代後期の茶の湯

1. 千利休150回忌 – 七事式の公安

江戸時代後期の茶道において、茶人たちは千利休(せんのりきゅう)の遺志を称え、彼の功績を讃える茶会を行いました。特に、利休の150回忌の際には「七事式の公安(しちじしきのこうあん)」という大規模な茶会が開催されました。七事式の公安は、7つの茶事を行い、茶人たちの参集が相次ぐ盛大な茶会として記憶されています。

2. 川上不白の活動

川上不白(かわかみふはく)は、江戸時代後期に活躍した茶人で、茶の湯の流派「不白流」を創始しました。彼は千利休の茶道の精神性を受け継ぎながら、独自の茶の湯のスタイルを確立しました。不白流は、茶道の中でも流派として独自の発展を遂げ、後世の茶人たちに影響を与えました。

3. 藪内竹心の活動

藪内竹心(やぶのうちちくしん)は、江戸時代後期の茶人で、茶道の修行を積んだ後、文化人としても活躍しました。彼は茶人としての優れた技術を持ちながら、俳諧や絵画、文学など幅広い芸術にも精通していました。竹心は茶道に芸術性と知識を融合させることで、茶の湯に新たな次元を加えました。

4. 松平不昧の茶道具収集

松平不昧(まつだいらふまい)は、江戸時代後期の大名でありながら、茶道の愛好家としても知られています。彼は茶人たちと交流し、茶道具の収集に情熱を傾けました。不昧の茶道具コレクションは、その後の茶道具の保存と研究に貢献しました。

5. 井伊直弼の茶人としての活動

井伊直弼(いいなおすけ)は、江戸時代後期の重要な政治家でありながら、茶人としても熱心でした。彼は茶道においても卓越した技術を持ち、茶人たちとの交流を重ねました。井伊直弼の茶道への情熱は、当時の政治的な立場とは別に、茶の湯の文化の継承に寄与しました。

江戸時代後期において、千利休150回忌を迎える茶会や新たな茶道の流派の創始、茶道と芸術の結びつき、そして茶道具の収集などが盛んに行われました。茶人たちの活動と情熱によって、茶の湯の芸術と文化は更なる発展を遂げ、日本の美意識と心の教養を豊かに育んでいったのです。

近現代の茶の湯

江戸時代までは大名や武士が茶の湯の世界を支えていましたが、明治維新で日本の封建制度が崩れまったく新しい国になったことにより、日本の伝統文化である茶の湯は一時廃れます。

一時期は千家お家元でもお弟子さんがほとんどいなくなるような状況でしたが、明治の世になって10年もしないうちに茶道文化が女子教育に取り入れられたり、表千家でも裏千家でも立礼が考案されるなど時代にあったかたちで茶道が伝えられ続けました。

また近代好奇者と呼ばれる人々が茶道の世界を派手に押し上げていた側面もあります。

武士の時代に始まった茶道ですが、武士の時代が終わっても、時代に沿った形で意思のある人々によって継続され、新たな支援者を得て現代にまで続けられています。

茶道の近現代の歴史をまとめた記事はこちらです▶茶道 近現代の歴史

茶道の歴史まとめ

茶道の歴史について1つの記事にまとめるのは非常に難しかったですが、この記事を読んでなんとなく茶道の歴史の全体の流れを掴んで頂けたなら光栄です。
抹茶を飲む習慣は鎌倉時代にはじまりましたが、鎌倉時代の後半には茶寄り合い・闘茶・唐物鑑賞会が同時期に別の階級ではじまり、戦国時代も信長の茶の湯のような派手なものが台頭するなかで、村田珠光のわび茶も推進されていたりとさまざまなスタイルの茶の湯が同時に存在しているので流れがイメージしにくいかもしれません。
大事なことは、茶の湯は日本の歴史からは抜くことはできないほど大きな存在であったし、今もなお日本人の心に宿る大切な精神であるということです。

この記事を書いた人
富士乃井 茶々

茶の湯サロン運営者の富士野乃井茶々です。

社会人になってから着物が好きになり、
着物を着たいという理由で茶道を始めました。

着付けと茶道を中心に日本文化が好きになり、
それを世界に発信するために英語の通訳案内士になりました。
2年半で4498人の欧米・アジアの方々をご案内。

現在は海外に移住し、海外から茶道文化を発信中です。

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